その手が象る世界 - 2/3

「あの絵、もっと近くで拝見しても構いませんか?」
「元々そういう約束だ。ただ絵具が乾いていないのでね、近付きすぎると君の黒い髪や白い衣装を襲ってしまいかねない」
 ソフィアはサーディンの言い回しに妙な可笑しさを覚え、くすりと笑った。
 リゼルの言う通り、サーディン・エクリスは相当の変わり者だ。会話を交わしてもいまいち彼が何を考えているのか分からなかった。偏屈家という言葉で片付けるには少々厄介かもしれない。
 ただ社交性がないだけならば、相手をするのはもっと楽だろう。これまでソフィアは様々なタイプの人物と出会わざるを得ない状況にあったし、そういう人間と付き合う方法は自然と身に付いている。
 だがサーディンに限って、ソフィアの物差しで測るのは危険だった。無口ではないのに機嫌が読めないのだ。何が彼を怒らせ、何が彼を喜ばせるのか。それら全てに掴み所がない上、ソフィアが知る人の性格のいずれの型にも填らない。
 とはいえ、だからといってもリゼルがサーディンに対して抱いている嫌悪感までを共有することはできなかった。
 自分の父親でありながら、その姓エクリスを名乗らない程にリゼルはサーディンを嫌っている。ソフィアが理由を尋ねても「最悪の男、最悪の父親、最悪の魔術師」と繰り返すばかりで多くを語ろうともしない。
 最初は年頃のせいかとも思ったが、リゼルがあからさまに態度を豹変させるのは父親を語る時だけのようで、二人の関係はソフィアの想像以上に深刻で難しいものだった。
 なら、結論は一つ。恐らく、この親子の間にはソフィアの知り得ない決定的なすれ違いがあるのだ。
 屋敷に居候しているソフィアの立場としては、リゼルとサーディンにもっと仲良くしてもらいたいと願うのが自然だ。何しろ彼らは実の親子、本当の家族なのだから。彼らにとって——特にリゼルにとっては余計なお節介なのだとしても、二人の関係を中和できるものならばしたい。面倒な事を買って出ても構わない。
 そこまでソフィアに強い決意をさせたのは、リゼルの話すサーディン像がソフィアの知るサーディンとは余りにもかけ離れていたからというのが大きい。
 リゼルはサーディンを世界で最も冷酷な魔術師と呼ぶ。目的のために必要ならば、他人だろうと身内だろうと躊躇わずにその手にかけて平然としているのだと。
 しかし、ソフィアは納得がいかなかった。確かにサーディンは喜怒哀楽を表情に乗せるほうではない。血の気の少ない顔色や肉付きの良くない顔立ち、そして色素が薄い瞳のせいで、必要以上に冷たい印象を与えることもある。
 だがそれは似た色の瞳をもつリゼルにも言えることだ。極端な話、笑っていないリゼルは無表情のままでも充分に冷たく、もっとはっきり言ってしまえば怖い。たとえ本人がのんきに食事の献立のことを考えていたとしても、あの金色の瞳とまともに目が合ってしまっただけで初対面の人間は逃げ出すだろう。
 ソフィアがリゼルに「あなたは笑っているほうがいいわ」と勧めるのは、空世辞でも甘言でもなく、純粋な助言なのだ。
 ともかく、見た目や聞いた話だけでは本質など分からないはずで、少なくともソフィアはサーディンを悪い人間だと感じたことがない。
 「それで充分だわ」と心の中で自分を励まし、ソフィアは画架より三歩ほど手前に立って絵を見渡した。
 花も少女も遠くから見るよりずっと繊細で柔らかい筆遣いで描かれている。
 こんなに幻想的な花の絵を描き続けるような紳士だ。リゼルが主張する冷酷な人物像とは、やはりどうしても一致しない。もしもそうリゼルに言ったなら、また「君は騙されている」と切り捨てられてしまうのだろうか。
 リゼルの不機嫌そうな顔を想像しながら視線を上にずらした時、絵の右上方にうっすらと記された文字が形を成した気がした。
「Ci ol Lip-Aura」
 文字列は瞬きをすると失われていた。見間違いにしてはくっきりと文字の形が頭に入っている。残像までが消えてしまわないうちにソフィアは呟いた。
「古代文字が読めるのかね? 君は魔術師ではないだろうに」
 彼女の声が届いたらしいサーディンは、意外そうに目を見開いている。現代において古代文字は魔術学界隈でしか使われていない。一般人は古代文字の存在すら知らない場合が多いのだろう。
「私の国では誰でも習うんです。あまり得意ではありませんけど、私でも簡単な文字だけなら」
「ああ、君は外国出身だったね。聖神殿のある、魔法の国だ」
 サーディンは芝居がかった調子でそう言うと、傍らに立て掛けられている宝石細工であしらわれた木の杖を手に取った。
「ならば、あれも読めるかな」
 杖の先端は部屋の奥の壁際にある小さな机を指している。
 丹念に磨き上げられた大理石の上に、黒い革表紙の本が無造作に置き去りにされていた。表紙には何も書かれていない。埃も傷も見あたらない新しい本に見えたが、中の紙はそれなりに古そうだ。恐らくは表紙だけを最近になって張り替えたのだろう。
 サーディンに促されるまま、ソフィシアは机へと歩み寄り、本を開いた。