その手が象る世界 - 3/3

 エルシア・ラグ・エクリスは、都市エクリスがまだ外の世界に存在していた時代の、最後の守護者である。

 あまりの難解さにソフィアは目眩を覚えた。万事が古代文字による古代言語で書かれている。辛うじて最初の一行だけは読み解けたソフィアだったが、正しく理解して読み進めるには時間と辞書が必要だ。
 これ以上は無理だと助けを求めてサーディンを見ると、彼はソフィアの心境を見越しているのか、構わない様子で言った。
「私は記録が趣味でね。その手記も私の過去の記録の一つだ」
「日記をつけるのがご趣味……ですか?」
 細かい記録や記憶の類は、ソフィアが不得意とするものの筆頭に入る。誰に強制されている訳でもないのに、ただ好きで日記をつける行為自体が理解できない。
「限界があったんだよ。言葉が必ずしも無力だとは思わない。だが文字だけでは不足があるのも事実だ。この世界に文字のみで完全に残せる事象が一体幾つあると思うかね?」
 黒い本を胸元に抱いたまま、ソフィアは首を傾げる。
「考えたこともありませんでした」
「世界には風があり、色があり、音がある。それら全てを残そうとしたら、文字だけでは足りなくなってしまってね」
 そう言ってサーディンはさっきの絵を指した。
 ソフィアは素直に感心した。なるほど、この絵もサーディンにとっては記録の一つなのだ。彼が見た風景をそのまま形に残したということだろう。
 なら、この絵の少女はサーディンにとって特別な存在に違いない。何しろこんなに多くのリプアラの中、蒼の世界と混じり合いながらも、彼女は一際輝いているのだから。
 そこまで思いを巡らせて、ソフィアは現実に立ち返った。
 リプアラの花は彼女の故郷であるセレスターラにしか咲かない。リプアラは人に幻を見せるという特殊な力を持つ魔花であるがゆえに、聖神殿の力で厳重に管理されている。セレスターラでさえ、リプアラがこんなに群生する場所は限られているのだ。
 だから異国人であるサーディンが、この絵の風景を見たことがあるとは思い難かった。
「あの、おじさま」
 暫く絵を見つめていたソフィアは振り返って尋ねた。
「おじさまは、リプアラをご存知ですか? おとぎ話の……つまり、花ではないほうの」
「花ではない?」
「リプアラというとても綺麗で、可哀想な少女がいました。彼女はあまりに綺麗だったばかりに、たくさんの人から愛され、そして裏切られてしまいました。絶望して誰も信じられなくなった少女は、命と引き替えに真実を求めます。そして人の想いを吸い込む花に生まれ変わりました。自らは真実を求めながら人に幻想を見せる魔花、それがリプアラの花なんです」
 リプアラの物語は、ソフィアの故国では有名な伝承だ。リプアラに関する伝説は数多あるが、そのどれをもソフィアは好きになれなかった。物語の最後には必ず主人公の死を感じさせ、幸福な結末が好きなソフィアを哀しくさせるからだ。
 花に心はないから少女リプアラが幸せだと捉える説もあるが、ソフィアにはそう思えない。彼女は花に限らず、どんなものにも心はあると信じるほうだった。
 だからもししもリプアラが真実を求めて咲き続けているのだとしたら、こんなにも哀しい物語はないと。
 その時、サーディンの喉から苦しそうに息が漏れる音を聞き、ソフィアは驚いて目を開けた。彼が笑っているのだという事に気付いたのは、咄嗟に駆け寄ろうとした直前だった。
「まあ、おじさまったら。楽しい物語ではありません、悲劇なんですよ」
 吹き出すほどに声を出して笑うサーディンを見たのは初めてだ。その意図を量りかねているソフィシアに、彼は珍しく「失礼」と軽く謝罪をした。
「楽しいのは物語ではない。君だよ、ソフィア。物語を語るにつれて君の心の雲行きまでが徐々に怪しくなっていくのが顔に出ていてね。君が余りにもリゼルと違うので、つい可笑しくなってしまった」
 サーディンは咳払いをしてカップを取り、もう冷めてしまっただろう紅茶に初めて口を寄せている。
 私の顔がそんなにおかしかったのだろうか。ソフィアが頬に両手を当てると、いつもよりやや火照っていた。
「……リゼルは君のように物語で泣いたりはしない。今目の前で起こっている現実以外を受け入れる能力がないんだ。そう、まるでその物語のリプアラのようにね」
「リゼルが?」
 ソフィアは思わず聞き返した。
思えば、リゼルは約束が好きではないと言っていた。過去を思い返すのも嫌いだと言っていた。確かにどちらかといえば現実主義なのだろう。けれど、取り立てて不自然な程にではない。
「現実以外というのは無論、物語に限った話ではないよ。過去だろうと未来だろうと、あの子は受け入れないだろう。今ならば分かる。エクリスの守護者やその後継者というのは、皆そういう性質なのだろう」
 思う所があるのだろう、サーディンは深く嘆息した。
「……でも、おじさまが昔からリプアラの絵を描いていると教えてくれたのはリゼルです。昔のことをちゃんと覚えていましたよ」
「まあ、信じたくない気持ちは分からぬこともない。見た目は普通の人間だからね。だが、期待して失望するのは君だよ、ソフィシア」
 サーディンは肩を竦めて瞼を伏せた。
「もしも君が今後もあの子と付き合いたいと思っているならば、尚更忘れぬほうがいい。あの子が信じているのは自分の目で見ている現実だけだ。しかもそれはただ瞳に映っているだけ。それはそれは狭い世界があの子を素通りしていくだけなんだ」
 どういう意味か。どうして決めつけるのか。
 尋ねたいことは山とあったが、ようやくこの親子の間に横たわる溝の根を知れた気がした。
 サーディンは既にリゼルに伝えるための言葉を使い果たしている。リゼルはリゼルで、サーディンを否定することしか考えていない。互いが相手を求めていないのだ。これでは通じ合える筈がないだろう。
「……私は、そうは思いません」
「思わずとも構わない。事実を述べているだけだ。あの子の声は聞こえても、こちらの声は決して届かない」
 でも、サーディンは絵を描き続けている。リゼルはそれをきちんと見ている。それもまた紛れなき事実なのだ。
 これ以上口を出したら、サーディンは怒るだろうか。それとも呆れて口をつぐんでしまうだろうか。
 そう予感してもソフィアは言わずにいられなかった。
「おじさまが絵をお描きになるのは、リゼルに伝えるためなのではないですか? 言葉では伝えられなかった、おじさまにとっての大切な真実を、本当は知ってほしいのではありませんか?」
 私は間違っていない。本当は二人とも分かり合いたいはずだ。
 そう信じたからこそ震える唇を誤魔化したのに、サーディンは口端を歪めるだけで答えてはくれなかった。
「ソフィア、君はもう気付いているだろう。私が本物のリプアラを見たことがないと」
 まるで告白した罪を自嘲して話す罪人のような口振りだった。
「この絵は真実などではない、偽りだらけだ。その少女はこの花が好きだった、だから描いた。その景色は実際には有り得ない私の幻想だ。それを伝えた所で何の意味もないよ。あの子には何も残らない。どんなに否定した所で、あの子はエクリスなのだから」
 何の意味もないはずがない。サーディンはきっと自覚していないのだ。今、自分がどれだけ哀しそうな声をしているかを。冷たく見える金色の瞳に、どれほど優しい色が灯っているのかを。
 ソフィアは一際強く言い切った。
「いいえ、おじさま。このリプアラは鮮やかで、本物よりもずっと綺麗ですもの。だからこの子も幸せです。きっとリゼルには伝わります。ひょっとしたら、もう伝わっているかもしれません」
 サーディンを慰めたつもりはない。初めてこの絵を見たときにソフィアの中から溢れた、正直な感想をありのまま伝えただけだ。
「……そうか。君には彼女が幸せそうに見えるんだね」
 ソフィアは深く頷いた。背後のサーディンがどんな表情をしているのかは確かめたくなかった。知ってしまってはならない、そんな気がしたのだ。
 ただ、サーディンも少女も、同じように笑っていますようにと願った。そしていつか、その真実がリゼルにも伝わりますようにと。