密室の窓 - 2/3

自身の細い影が、丁寧に磨きこまれた床へ投げ出されている。くるぶしから首筋までを隠す深い色のドレスをあつらえてくれるのは、いつも妹を思う姉だった。
愛する方にお会いするならば、きちんとお洒落しなくてはと、いつも彼女にもっとも似合う衣装を選んでくれていた。
——愛する方。
声にはしない。空気にすら溶けず、音は口の中で消えていく。
陛下は私を愛してくださっている。では私も愛せるだろうか、「あの方」以上に陛下のことを。
息を着いて、答が囁かれるはずのない沈黙に耳を傾ける。
いや、自分に迷う余地はない。陛下の望む通りに振る舞っていればいい。側にいればそれで良いと国王陛下はおっしゃった。だから私はそれに従うだけ。
怖れはせず、ただ信じていよう。この婚姻は自分や家族——ウィスタリア家の幸せにも繋がるはずなのだから。
「待たせたかな」
そう決意していたにも関わらず。
長い沈黙を破って扉を開けた主は、見慣れた長身の青年だった。あまりのことに、息を呑まずにいられない。
「アメシウス様……」
どうして、という疑問に代えて、呼ぶでもなく彼の人の名を呟く。そうすることでサーシャはようやく現実を取り戻した。頬紅など差さずとも仄かに紅潮していた頬からは血の気が引き、みるみる色を失っていく。
それほど彼は来るはずのない人物であり、同時に彼女が今いちばん会いたくない青年でもあった。
嘘だ。本当は心のどこかで期待していた。その期待が裏切られた時のために、この人が来るはずがないと思い込んでいただけだ。自分を傷つけないために、自分の心を守るために。
しかし、彼は来てしまった。
「呼び出してしまってすまなかったね」
何度も櫛が通されているだろう艶やかで長い漆黒の髪。それと同じようにすらりと伸びた身体は特に筋肉質なわけでも、か細いというわけでもない。今にも闇に紛れてしまいそうな黒い地味な装束ではあったが、腰に下げられた剣の飾り柄に彫られた王家の紋章は、彼が特別に高貴な身分であることを自ずと証している。
彼こそはセレスターラ聖王国の王位継承者であり、彼女の秘密の恋の相手、その人だった。
「……ごきげんよう、王太子殿下」
あえてサーシャは膝を落とし、頭を屈めて正式な挨拶をした。
彼女の態度はアメシウスをあからさまに困惑させた。どこか寂しげに顔を歪めたが、それはほんの一瞬の出来事だったので、彼女が反応を知ることはなかった。
「わざわざ偽名まで使ったんだ。楽にしていいよ、ここには君と俺しかいないんだからね」
言いながら外襟の埃を払う。
本当に誰もいないのだろうか。扉の外には侍従長が控えているのではあるまいか。まだ半開きになっている扉の向こうの闇を見つめるサーシャに、アメシウスは柔らかく笑みつづけた。
「疑り深いね。俺が君に嘘を吐く理由があるとでも言いたげだ」
どんなに柔和な表情をしていても、人をはっとさせるような深い輝きを秘める双眸は隠せない。灯る光は何よりも青年の存在に特別な力を与えている。
その紫の眼に見つめられると、沈めていた心が揺らいでしまいそうで、サーシャは意識的にアメシウスを避けていた。国王との契約——婚約を受け入れて以来、なるべく彼の人とは顔を合わせないように努力してきたのだ。
アメシウスもまた同じのはずだった。少なくともサーシャ自身は、離れていても思いは同じなのだと信じていた。それを支えにして、彼女は窮屈な宮殿での扱いを堪え忍んできたのだから。
だからこそ、彼の意図が計り知れない。
「自分の部屋から抜け出すのにも一苦労だよ。最近では俺の行動を逐一監視する者まで出てきたからね。まったく、厄介なことだ」
向こうの正体は大体見当がついているけれどと、やや視線を泳がせてアメシウスは付け加えた。
「それだけ俺には信用がないということだし、一方で君が王妃になる事を歓迎する者ばかりじゃない、ということだよ」
「承知しております。私は、どんな覚悟もできておりますから」
「ふうん、覚悟か」
問いともとれぬアメシウスの相槌に臆することはないのだ。自分はもうアメシウスと出会った頃の怯弱な自分ではない。眉一つ動かさぬ毅然とした態度を保ちつつ、サーシャはかすかに頷いた。
「ときに、この度はどのような御用事でございましょう。お忍びで私と会ったことが知れましたら、ご自分のお立場もますます悪くなってしまうのではございませんこと」
握りしめた両の拳を隠しながらサーシャは勇気を振り絞った。半ば諦めたような表情を浮かべ、畏まって尋ねる。
そうするしかなかったのだ。これ以上その瞳で見つめられたら、ようやく平静を取り戻しつつあった心を、今度こそ掻き乱されてしまいそうだった。
「どうしても伝えたいことがあってね。きっと、これが最後だから。騙して呼び出したことは許して欲しいよ」
そこまで言うと、長身の青年は扉をきっちり閉め、ゆっくりとサーシャへ歩み寄った。
何の迷いもなく、ただ真っ直ぐこちらをとらえる表情は決意に満ちている。ただならぬ気配に思わず後ずさりをしてしまいそうになったが、サーシャは耐えた。
負けず嫌いの彼が、初めて「最後」という言葉を使ったから。
「実はね、近いうちに王室で裁判が行われるかもしれないんだよ。内々にだが」
アメシウスは表情を変えぬまま、ごく普通の他愛もない話をする口調で言った。
「例の公爵家の連中が父上に進言したんだ。君と俺の関係を疑っている奴らだよ。知っているだろうけど、君を新たな王妃として認めない者たちの領袖みたいなものだからね、彼らは」
「……そうなのですか」
憂いこそ秘めているが、彼女の返答もまた落ち着き払っていた。自分を追放しようとしている人物がいることは簡単に想像し得ることだ。
「売られた喧嘩は買う主義でやってきたけれど、今度ばかりは相手が悪いね。これを外さなければならないかもしれない」
おもむろに黒い手袋を外し、王位継承者を証す指輪をサーシャに見えるように差し出す。見る限りは何の変哲もない銀の指輪が鈍く輝いていた。
「わたくしがどう裁かれようと、殿下のご将来には関係のないことですわ」
「裁判の被告は君ではない。この俺だ」
一瞬、アメシウスの口端が笑みに歪んだ気がした。
安易に受け流すには余りにも重要な情報だ。どういうことかと尋ねようとしたサーシャを遮り、アメシウスは更に続ける。
「まあ、俺のことはいい。王太子の称号なんかに未練はないからね。 それより、心配なのは君と」
「わたくしと……?」
心なしか、彼の微笑に暗い翳りが灯った。
本当は聞き返さずともその続きは察せる。彼女は無遠慮な視線を感じる下腹部を庇うように右手を添えた。
サーシャは身籠もっていた。他の誰でもない、アメシウスの子を。
その事実さえなければと何度も思った。そしてそんな恐ろしいことを思ってしまう自分を何度も責めた。
「昨夜、陛下の……父上の寝室に初めて呼ばれたんだってね」
サーシャは言葉を失った。どのような返答を望まれているのか、彼の真意が読めない。
しかしそれ自体は問題ではないといった風に、アメシウスは続けた。
「父上は何もなさらなかったろう?」
唇を固く結んだまま、弾かれたようにアメシウスを見上げるサーシャの蒼い瞳。視線同士が絡み合って、部屋の空気が急激に変わった。
「隠さなくたっていい。俺は知っているんだよ。前王妃、すなわち俺の母上のことだが、彼女が死んでから父上は女を抱けなくなった。君みたいな綺麗な人と褥を共にしても、それ以上何をするでもないってね。セレスターラの守護者だからじゃない、父上はそういう病気なんだよ」
「私は別に構いませんわ。そのようなことだけが夫婦の繋がりだとは思っておりませんから」
「それを公爵家の連中が勘付いているとしても?」
寂しそうに、アメシウスは息を着いた。彼の表情の変化に不意を突かれたサーシャの心が疼く。
「本当は差し違えてでも父上を殺してやりたい。君を俺から奪っておきながら、君を愛してやれない父上がこの上なく憎い。だがセレスターラは守護者としての父上を必要としている。父上を殺すことは、セレスターラ王国全てをも殺すことに等しい。君が何よりも守りたがっている家族をもだ。そうでなければ、俺は……」
アメシウスは長い指の甲を差し出し、サーシャの頬を撫でた。懐かしい感覚に涙が溢れそうだった。哀しいことに、身体が憶えているのだ。心も、本当はいつだって。
時が制止して、ひどく間があったように思えた。サーシャもアメシウスも、その場に凍り付けられたように動くことができずにいた。
もしも今、逃げましょうと提案すれば、セレスターラ王国の運命と引き替えに、二人——いや、お腹の子を含めた三人で幸せになれるかもしれない。どこか遠い異国で一生を隠れながら暮らすことになるとしても。
ここは全ての均衡が狂い出してもおかしくない分岐路。どう進んでも後戻りはできない最後の砦なのだ。
下手に言葉を発したら、張り詰めた聖域を汚してしまう。
それはつまり、限りなく零に近いあらゆる可能性をも吹き消すことに他ならない。簡単に手放すには余りにも惜しい、全ての希望を。
——だからお互い、言葉を発することを躊躇していたのかもしれない。
気が遠くなってしまう程の沈黙。視界さえ狭まりそうな長い時間を経て、先に世界を壊したのはサーシャだった。
「……そのようなこと、軽々しく仰ってはいけませんわ。今と昔では貴方もわたくしも、置かれている立場が違いすぎます。わたくしは貴方を陥れている側の人間かもしれないのですよ」
完全に気圧される前に自分の意思に釘を差しておかなくてはならない。
ようやく唇だけで笑顔を作り、彼女は青年から顔を背ける。鼓動が高鳴りすぎて、アメシウスにまで聞こえてしまいそうだった。
「軽々しく? 俺が危険を冒してまで、こんな戯言を弄するような狂った男だとでも?」
「私は陛下に……あなたの御父君に嫁ぐはずの女ですわ」
「いつだってそうだね。はぐらかして俺を見ようとしない。どんなに真剣に見つめていても、俺を見つめ返してはくれない」
「あなたをまともにお相手していたら、私だって冷静でいられませんもの!」
思わず叫んでしまう。鼻腔の奥が差し込むように痛んだ。
アメシウスを見返した瞳は、やや潤んでいたのだろう。違う、こんなつもりではないけれど。
「サーシャ……」
泣いているように見えたかもしれない。その自覚はあった。彼が自分を見下ろす双眸に、急に翳りが広がっていったから。
心のどこかが熱い広がりに満ちていた。この場から逃げてしまいたいのに、それが叶わない。奥底ではこの人に奪われることを望んでいるのかもしれない。
それでもサーシャは必死に感情を堪えて眉間に深く皺を刻む。さも深刻事ではなさそうに、薄紅色の唇が声色を落とした。
「わたくしは貴方ほど強くありませんから」
「俺だって君が思っているほど強くはないんだよ」
誤解だと言わんばかりにアメシウスが肩を落とす。
「だから、わたくしを抱かれたのですか!」
ご自分よりも弱い女を抱いて、ご自分を慰めたのですか。
決してそうではない事を最も知っていたのに、そんな空虚なことでしか反論できない今の自分は、人生の中で最も惨めだった。
「どうしてそうなる」
アメシウスが息をつく。いつの間にか笑顔は消え、重い表情になっていた。自分の失言に怒っているのだろう
いっそ、自分を憎んでくれればいい。そうすればこの人の哀しみも決意も薄らいでくれるかもしれないのに。
「話を戻すよ。俺と君の関係を嗅ぎ回っている者がいるのは事実だ。遅かれ早かれ露顕されるだろうね。そうしたら君の身だって危うい」
お腹の子もね、と、言い辛そうに付け加えた。
「だから父上……陛下には、俺が君を犯したと言えばいい。すべて俺だけの罪にすればいい。いいね、そうすれば君も、その子も助かる。父上がどれだけ君を本気で愛しているか知れないが、あれで結構したたかな人だよ。傲慢さはセレスターラ一だ。俺のことは嫌いだろうが、自分の意思は押し通す。周囲に反対されてもね」
あまりのことに、サーシャはただでさえ大きな瞳を見開いて絶句した。
一方アメシウスはその双眸に有無を言わせぬほど強い力を含んだ光をたたえたまま、そんなサーシャを射抜くように見つめている。その眼差しに吸い込まれたら、どうして逃げることなどできるだろうか。
「もう一度言う、何があろうと俺を弁護してはいけないよ」
お願いだから憐れみを誘わないで。そんな眼で見ないで。今度こそ、おかしくなってしまう。
「そんな……あなたは意地悪です……」
鈴が細かく揺れて鳴るような声で、吐き出すように呟く。口を突く言葉とは裏腹な気持ちで頭が満たされていた。この人はいつも自分に「はい」としか言わせない。
強引で、頑固で、自分勝手で、誰よりも優しい人。
「いけません、そのようなことを仰っては。同罪です。あなたも、あなたを止められなかったわたくしも」
「駄目だ。万が一にでも許されたら俺は死ねなくなる。軽くなろうと罪は罪だ。君が父上に嫁ぐところを見ながら、君のいない場所で永遠に生きていかなければならなくなるんだよ。どちらが残酷か、君には分かるよね?」
アメシウスの口調には迷いなどは微塵もなかった。何度も熟考し、得た結論なのだろう。
「君を愛している。でも君に俺を愛してほしいとは望まない。俺は口先だけの言葉で満足できるほど子供ではないよ。もう、あの頃とは違うんだ、何もかも」
過去を思い返しているのか、アメシウスははにかんだように頬を緩めた。この状況でなぜ昔を想って笑えるのか。彼がまだ幼かった頃から接していても、やはりこの人は理解できない。
「ならわたくしにだって、あなたにそれほど愛される価値があるとは思えませんわ!」
どのような理由であれ、自分は打算で国王陛下を選んだ女なのだから。
アメシウスは返事の代わりに、唐突に彼女の両肩を抱いて唇を重ねてきた。
それ以上を求めようとはせず、サーシャを覗き込んだ紫色の瞳が再び柔らかく微笑んだ。普段は気高く厳しい表情をしている彼の、普段は見せることのない表情に魅入られて、すべてを許してしまったのは自分。
あの時もこうだった。この人は自分を包み込んでくれた。不安なことも、この人に触れていれば忘れることができた。アメシウスの体温は、サーシャにとって不可欠なものだった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
抱き締められたサーシャに抵抗などできるはずもない。それは心のどこかで彼女自身が望んでいたことなのかもしれないのだから。
「……さっき『覚悟』と言ったね。それはなぜ?」
吐息を感じるほど近くでアメシウスが低く囁く。サーシャはもう何も言えなかった。喉から溢れる嗚咽をこらえるだけが精一杯だった。
「覚悟というのは喜ばしいときに使う言葉じゃないよね」
額に額を合わせたまま、一言一言を確かめるように紡がれる言葉が、ゆっくりとサーシャを支配する。
「それだけでいい。それだけでも俺にとっては、十分すぎるほどの救いになる」
サーシャの肩をつかむ手が微かに震えた。首筋は熱を孕んでいるのだろうか、やや汗ばんでいる。もしかしたらサーシャ以上に彼は恐れていたのかもしれない。
彼女に触れられなくなるという現実を、何よりも。
言葉を失ったサーシャは、ただ肩を震わせるだけだった。翳る表情に言いしれぬ悲壮感を漂わせたまま。
「頼むから、泣かないでくれ」
半ば縋るように呟いたアメシウスの願いは叶えられそうもない。
信じたくなかった。もう二度と、この顔を見ることができないなんて。もっとも愛した声を、この言葉を、二度と聞くことができないなんて。
現実を受け入れるには、残された時間は余りにも短い。
そのとき何が正しかったのか、とうとうサーシャには分からなかった。

だから今でも夢を見る。

この選択が最善だったのか。自分は間違いを犯してしまったのではないか。
もちろんどんなに悩んだ所で取り返しがつくはずもない。もうあの日には戻れない。
それに、たとえどの道を選んだとしても、生きている以上は迷いが消えることなどないだろう。後悔は痛みにしかならず、惑いは歩みを遅らせる障害にしかならないのに。
それでもサーシャは、あのときアメシウスが噤んだ言葉の続きを何度も想像し、反芻した。封じたあの部屋から繋がるはずだった、自分たちの行方を。

その先に拓けていたかもしれない、既に失われた未来は、なぜかいつも現実よりも映えて見えた。