密室の窓 - 3/3

「……結局、私は陛下に、あの人を愛していたと申し上げてしまったのです」
サーシャ王妃——ソフィアにとっての若き義母は俯いたままだった。アメシウスの実妹である王女を目の前にして、懺悔をするかのように膝上へ組んだ自分の手を見つめている。白い絹質に似た肌は、数年前から全く変わっていない。
「殿下だけの責任ではございません。私の心の弱さが起こした罪にございます。私をお裁き下さいませ、殿下を御放免くださいませ、と。あとはあなたもご存知の通りです。殿下は牢獄へ移され……」
少しずつ記憶を辿るように、一言一言をゆっくりと噛みしめる。
傍らでソフィアは出された菓子と茶に手を付けることもなく、そんなサーシャを見つめていた。

西宮殿の奥の白い部屋は、今はサーシャの私室の一つとなっている。ソフィアがここへ足を踏み入れたのは今日が初めてだった。何度か招待されたことはあったが、呈の良い理由を付けては断り続けてきた。
だから今日に限って気が向いたのは特別だ。亡き兄の友を名乗った人に兄の遺言を聞き、サーシャ自身の視点から、その認識を確かめたくなったからだ。
しかし話を聞いたところで、ソフィアは彼女がしたことに納得がいかなかった。兄であるアメシウスがどれ程真摯な想いで彼女を愛していたのか知っている。かつて幸せに満ちた恋人同士だった二人を知り、憧れていた頃すらあったのだ。自分もこのような恋愛がしたいと。
サーシャが弁護したことで罪は減ぜられ、アメシウスは死罪を免れた。しかし代わりに魂すら封じられるという牢獄へ送られることになった。それから数年後に病死したというアメシウスは、今この時も深く夢を見ているのだろう。
「怒らせてしまったでしょうか」
サーシャの問いにもソフィアは答えない。言葉が出てこないのだ。薄々知ってはいたとはいえ、事実をサーシャ本人の口から聞かされて、やはり困惑せずにはいられなかった。
或いは、その感情は怒りだったのかもしれない。固く握り締めた拳の感覚は既に失われている。
「当然です。わたくしはあなたに許されるべきではないのでしょう。あなたのお兄様を貶めてしまったのですから。それなのに私はここで生きています。何事もなかったかのように、平穏に」
サーシャは立ち上がり、閉じたままの扇で口元を隠した。
「けれど、わたくしはそうするしかありませんでした。わたくしは刹那の恐怖に怯えていたのです」
双眸に灯される淡い光。サーシャ王妃が巷で囁かれている程の悪女でないことは誰でも一目すれば分かる。第一もしそれを罪と呼ぶならば、彼女だけに償う義務があるわけでもない。それも分かっている。
それでも、どうしても、ソフィアはサーシャに心を開くことはできなかった。
この花のように可憐な人に笑みかけてしまったら、全てにおいて負けてしまう。それだけは意地でも避けたかった。
「あなたにも、大切な方がいらっしゃるのでしょう?」
黙り込んで久しいソフィアに、王妃は優しげな蒼い眼差しを向けて問いかけた。
サーシャが王室に嫁いできて以来、これまで二人はまともに話したことはない。同じ宮殿下で過ごしていても、相手が何を考えているのか知る機会すらなかった。
後妻の王妃と前王妃の王女——即ち義理の母娘。兄の昔の恋人と昔の恋人の妹。いずれの関係にしても複雑すぎて、互いが近寄りがたい相手であることは間違いない。言うなれば、ただの他人よりも遠い存在なのだ。
だからそれはソフィアが気軽に答えられるはずもない、唐突で不躾な問いだった。
「……ごめんなさい、詰問している訳ではないのですよ。伺うまでもありませんでしたね。分かります、女ですもの」
ソフィアは否定も肯定もせず、ただサーシャを見つめる。アメシウスと同じ紫色の瞳で。
「あなたは受け入れられますか?」
そこでソフィアは、初めて「何のお話でしょう」と問い返した。
ようやく反応が返ってきたことが嬉しかったのか、サーシャは静かに目を細める。
「その方が、その手で自分を殺めてくれと仰ったら」
「……そんなことは有り得ません」
ソフィアはできるだけ素っ気なく答えた。
「そうしなければご自分は不幸になると願われても?」
「私は愛した人を不幸にはさせません。裏切るような真似もしません。決して、何があろうと」
命を奪われる以上に、どんな不幸があるというのか。
ソフィアは鋭く視線を投げかけ、やっと言った。もちろんそれは本心だったが、口に出してしまうと何て軽々しいものだろうと自嘲する。
「そうですか、あなたもお強いのね。あなたに想われている方は幸せですね」
サーシャの物言いが抑揚もなく穏やかだったので、ソフィアは素直に耳を傾けた。
「ですが、強さと脆さは同義なのかもしれません。折れてしまった剣は元に戻らないでしょう? 殿下もそういう方でしたから……」
まるでアメシウスがまだそこにいるかのように、サーシャは敬慕ともとれる表情を浮かべている。
サーシャは窓際に掛かる薄布を引き、ほんの少し窓を開いた。窓からは陽が差しこみ、淡い風がそよいだ。部屋全体が暖かな光に包まれる。
王妃の座に着いたときから付きまとっていた冷たい印象は、今のサーシャには感じられなかった。亜麻色の髪が光を受けて、目が離せなくなる程に艶やかに煌めいている。
こんなにも彼女の後ろ姿は小さく儚い。兄が彼女だけを愛した理由が分かるような気がする。兄はただ、彼女と自分の想いを守りたかっただけなのかもしれない。
とても綺麗で、弱々しくて、何て狡い人なの。
女の自分までこんな風に思わせてしまうのは、サーシャの魔力なのだろうか。それとも、死んだ兄の意思なのだろうか。
ソフィアは複雑な思いで、ただ彼女の後ろ姿を眺めていた。
「陛下には感謝しています。シエルはこれからも陛下の第三王子として育つでしょう」
「……将来、シエルに真実をお話しになるのですか?」
「いいえ、そのつもりはありません」
ソフィアの問いに、サーシャははっきりと首を振った。
「たとえあの子が望んだとしても、知らなくていい真実はあるのです。あの子の父が誰であろうと、セレスターラが選んだ後継者であることに代わりはないのですから」
ならばなぜサーシャは自分に過去の話を伝える気になったのか。今、あえて自分に真実を知らせる意味があるとは思えない。
「でも、無かったことにしようとしている訳ではありませんよ。わたくしは憶えていたいから……そして、あなたにも知っていてほしいから、こうして全てをお話したのです。ごめんなさい、これは全てわたくしのわがままです」
こちらが言いたいことを見通していたかのごとく、サーシャはそう続けた。
本当に狡い。先に謝られては文句も言えない。
ソフィアは肩を落とし、吐きかけた溜息を呑み込んだ。
「この窓から、ちょうど見えるのです。中庭でシエルが、あなたに遊んで頂いている様子が」
窓の外を窺う仕草をしながら、ありがとうと言ってサーシャが温かく微笑む。ソフィアは初めてサーシャの母親としての表情を見た気がした。
「最近やっと、少しだけ落ち着いてあの子を見ていられるのです」
だから何も言えずに話を聞くことしかできないでいた。
都合の良さを非難したいのに、彼女のシエルへの想いに水を差すべきではないとも思う。シエルだって本当は、腹違いの姉である自分よりも実の母に愛されたいはずなのだから。
「あの子には何の罪もないけれど、今まではどうしても駄目でした。色々と思い出してしまって。母親としてあの子を愛することは、できないままかもしれませんが……」
サーシャの表情には、幾分寂しさが見え隠れしていた。しかしそれが何に対するものか、対象が多すぎて量り知ることはできない。
「それもまた、わたくしが一生を賭けて償わねばならない罪なのでしょうね」

「あの子がセレスターラの守護者になる日までは、こうして見守るつもりです。アメシウス様もそれを望まれていると信じていますから」

サーシャの部屋を後にする際、サーシャははっきりとそう言った。サーシャの顔は最後まで穏やかなままだった。
ソフィアは結局、彼女に尋ねたかったことの半分も為し遂げられなかった。
「……ああ」
嘆息する。自分の負けだと認めざるを得ない。
中庭の花壇はよく手入れされており、色とりどりの花が咲き乱れている。それらを観賞しながら、ソフィアは整えられた道をゆっくりと歩いていた。
想いに間違いなどあるのだろうか。彼女はそれを、償わねばならない罪だと言う。
いや、そんな筈はない。どんな想いだって罰されるべきであるはずがない。これらの花がどんな色で咲こうとも、どんな夢を見ようとも、罪であるはずはないのだから。
涼しい空気を孕んで吹き抜ける風が、花たちとソフィアの黒い髪を揺らした。
うつむいて悩んだままでは、心までが揺さぶられてしまう気がする。このままではどこかへ流されてしまう。
心許なくなり、サーシャの部屋を振り仰いだ。その窓は再びカーテンと共に閉ざされている。
二度と自分の前に開かれることはないだろうと、ソフィアは予感していた。

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