花想少女〜Lip-Aura~前奏曲ノベライズsideカトレア

 

「ねえ、お兄様、リプアラのおとぎ話って知ってる?」

「リプアラはね、花に姿を変えた女の子の名前なのよ」

「……恵まれて生まれたばかりに、多くの人に騙されて、大切なものを盗まれた少女は、誰も信じることができなくなりました。湖に映った自分の姿、自分の表情さえ、本物かどうか知る術はありませんでした」

「……何も思わず、何も喋れない花になれば、誰も私に嘘を吐く人はいなくなる。心のない花を騙す人なんていない。そうしたら、私は私に語りかけてくれる人の言葉を、信じることができるかもしれない」

「……そんな希望に縋って、少女はただ願いました。そして」

 

「少女は花になりました」

 

花想少女〜Lip-Aura~前奏曲

 

「カトレア、お誕生日おめでとう」
 名前を呼ばれて、カトレアは振り返りました。
 イリヤお兄様が両手にいっぱいの花束を抱えて、カトレアに笑顔を向けています。
「イリヤお兄様、どうしたの? このお花!」
 カトレアはとても驚いて、目をぱちくりさせました。イリヤお兄様は、身体中が泥だらけで、傷だらけだったんですもの。
「それにその怪我!」
「カトレアに似合うと思って、崖っぷちから決死の覚悟で摘んできたんだよ。この傷はちょっと転がり落ちて死にかけただけさ。こんなかすり傷、カトレアの愛があれば、一日で治るよ」
「嬉しい! イリヤお兄様、大好き!」

 

——そこまで書いて満足しそうになったけれど、ぐっと堪えてペンを走らせた。

「……そして、二人は永遠に、幸せに暮らしました……っと。うん、めでたし、めでたし」
ノートに書き上げた物語、と言うにはあまりにも幼稚な妄想。わたしだけが読む、わたしだけの架空の日記だから問題ない。
展開は様々だったけれど、ラストだけは同じ。イリヤお兄様とわたしが一緒に幸せに暮らすという——夢物語。
そう、それは今は遠い夢になってしまった。
大好きなイリヤお兄様をこの家から寄宿学校へ追い出した、お父様とセージュお兄様のせいで。
「できた! 完璧じゃない?」
まだ最後のページのインクが乾ききってないけれど、待ちきれなくてペラペラと捲る。わたしの考えた目一杯の幸せを綴った文字を目で追いながら、大きく息を着いた。
「……はぁ。これが現実だったらいいのにね」
我ながら溜息はよくないと思う。どんな夢からも、一気に覚めてしまうから。
と、その時。ドアが二回ノックされた。
「はあい」と返事をすると、顔を出したのはセージュお兄様。少し困ったような表情をしていたので、すぐに良い報せではないと分かった。
「どうしたの?」
「今日は父上も母上も帰れないそうだよ。大雨で西側の畑が大変らしい」
「……そう」
セージュお兄様の過剰な優しい声色に、わたしはイライラしてしまった。
そんなことを言うためだけにわざわざ部屋に来なくてもいいのに。
嫌悪感を顔には出していないつもりだったけれど、セージュお兄様はわたしをチラっと見て咳払いをした。言葉にせずとも、わたしの気持ちが伝わったのかしらね。
「兄さんも出かけてくるけど夕方には戻るから、誕生日のお祝いは二人でしよう。いい子で待ってるんだよ」
「……分かったわ」
セージュお兄様の足音が遠ざかっていくのを確認する。そして、閉められたドアに向かって、椅子に置いてあったクッションを思い切り投げつけた。
扉に当たり、床に跳ねるクッション。
こんな悪態を着いていると知ったら、セージュお兄様はどんな顔をするかしら。そんな意地悪なことを思いながら。
そう、今日はわたしの十四歳の誕生日。こんな日でも、わたしの家族は「お仕事」を優先させるらしい。
マーシェル家。それが、わたしの生まれた商家だ。
この国——セレスターラ王国の特産品、上質な絹や綿をはじめ、各国の珍しいものを取り扱うのが我が家の事業。
けれど、それは表向きの話。本当は、表では言えない悪いことを沢山している。盗掘された宝石や禁忌の魔術書、時には人間まで売買していることを、わたしは知っている。
地下室にある箪笥の上から三番目と四番目に、裏帳簿というものが隠してあることも。
それでも、わたしには甘い両親と兄なのに。
「……お誕生日なのに一人でお留守番なんて、つまらないわ」
この敷地だけは大きな屋敷で、ひとりぼっち。もちろん使用人はいるけれど、そういう問題じゃない。誕生日に家族がいないことが嫌なんだから。
「——イリヤお兄様がいてくれたら良かったのに」
イリヤお兄様が帰ってくるのは来週の予定だ。まだあと一週間も、この寂しく退屈な日を過ごさなければならない。わたしの機嫌をうかがうセージュお兄様の傍で。
その時、わたしははっと思い立った。
「お父様の花園のリプアラは、もう咲いてるかしら?」
リプアラとは、青色の花弁をもつ魔花。幻想を見せる強力な魔力がある……と言われているため、許可のない一般家庭での栽培は禁止されている。禁を破ると重い罰が課せられるらしい。
我が家はもちろん一般家庭じゃない。『マーシェル家』だから、という理由で。
「幻想でいいから、イリヤお兄様に会いたい」
そう思ったら最後、わたしは自分の衝動を止められない。
ただその一心で、わたしはリプアラを拝借しに花園へ行ってみようと思い立ち、窓から外を覗いた。
窓を叩く雨の音で分かっていたけれど、土砂降りだ。こんな日に外に出たら、傘を差していてもびしょ濡れになってしまう。
そんな、中庭を容赦なく打ちつける雨の中で。
「……あっ!」
わたしは見覚えのある人影を見つけ、弾かれたように駆け出した。
雨の中でもはっきり分かる。そこにいたのは、会いたくて仕方がなかった人。三ヶ月前に会って以来、心が病んでしまうほど想い続けたイリヤお兄様——その人だったから。

 

 

「イリヤお兄様ー!」
東の小さな門の前でイリヤお兄様の姿を見つけて、雨の中を勢いよく走り寄るわたしを、イリヤお兄様は黒い礼服のような制服のまま、両手を広げて迎えてくれた。
濡れた服も靴も、何も気にならない。だってそこに、イリヤお兄様がいるから。
「お帰りなさい! 早かったのね!」
「ただいま、カトレア」
イリヤお兄様の腕に甘えられることが、夢のよう。リプアラの幻想
「今ね、お兄様が早く帰って来ればいいなって思ってたのよ。もう、一つお願いが叶っちゃった」
「うん、学校の予定が変わったんだ」
「なんだ、カトレアの誕生日だから、早く帰って来てくれたんじゃないのね」
「え……、あ、そうか……!」
わたしの言葉に慌てるイリヤお兄様。別に、わたしは本気で怒っているわけではないけれど、イリヤお兄様を困らせるのは大好き。正確には、困った顔を見るのが好きなんだけどね。
だから、鈍いイリヤお兄様でもわたしが拗ねているのが分かるように、思いっきり唇を尖らせてみせた。
「ふーん」
「ごめん、完全に忘れてた。お誕生日おめでとう、カトレア。前に会った時より大人っぽくなったね」
まったく取り繕わないイリヤお兄様。わたしに興味がないことは知っているから、今更傷ついたりはしない。むしろ、なんて素直なのかしらと思うくらい。
「カトレアは本日をもちまして、なんと十四歳になりました。もう子どもとは言わせません!」
「僕は十六だけど」
気取って宣言したわたしに突っ込むイリヤお兄様は、かわいい。
「お兄様、おとなげない。歳は上でもコドモね、コドモ」
「冗談だよ」
「……いいわ。じゃあ、今日だけカトレアの騎士になってくれたら許してあげる」
「……カトレアの……騎士?」
「そう、カトレア姫を守る騎士、イリヤ・マーシェル!」
思い付きのように聞こえたかもしれないけれど、これはわたしが考えた妄想で、秘密ノートにしたためた設定のひとつ。姫と騎士の恋物語って、なんて美味しくて素敵なのかしら。
「……つまり、何をすればいいんだ?」
困惑したようなイリヤお兄様を遮るように、わたしは笑って言った。
「あのね、これから行こうと思ってた所があるの。一緒に来てくれる?」
「……お姫様のお供か。また屋根裏部屋とかは勘弁だよ」
「大丈夫よ、おうちの裏庭だもの。『リプアラ』の蕾が、そろそろ咲いてるかもしれないから」
「『リプアラ』?」
「幻を見せて、願いを叶える魔法のお花よ」
しとどに降る雨の中、わたしは転ばないようにイリヤお兄様の袖を掴んで先導した。舗装された箇所を選んでいても、靴は三歩でびしょ濡れになってしまうほどの降りっぷり。
それでも、わたしは雨が嫌いではない。
なぜなら、イリヤお兄様が真の雨男だから。
「イリヤお兄様と外に出ると、いつもシャワーを浴びられるわよね」
それも冗談では済まされないレベルの頻度で、イリヤお兄様に何かがあると雨が降る。
雨の女神に愛されていると誰もが確信するほどで、雨男という言葉は定番の自虐になっていた。
「本当にごめん……」
イリヤお兄様は、本気で自分のせいだと思って謝ってくれる。しゅんとしたお兄様を見るのが好きなわたしは、趣味が悪いかしら。
母屋の裏庭にあるのは、お父様とセージュお兄様が直接管理している秘密の花園。
セージュお兄様は大事なものを地下室に隠す癖があるから、鍵も簡単に見つかった。
イリヤお兄様はこの花園に初めて入るようで、少し怖々と辺りを見回している。珍しい草花がたくさんあるから、無理もないけれど。少しはわたしを見てほしいと思う。
「へえ……見たことない植物ばかりだな」
「これはクリエラ、こっちはウェイストン、あれはジャグズ。気をつけてね、毒のあるお花もあるから」
「えっ」
イリヤお兄様の足が一瞬止まる。
「魔術書に載ってるような、魔力のある植物を集めて『保護』してるんだって」
もちろん、それは建前。高値で取引される魔花を商売に使うつもりに決まっている。
「へえ。父さんたち、新しい事業でも始めるのかな?」
「さあ。お仕事の話のときは、カトレアは仲間はずれだもの」
セージュお兄様とわたしは、たった五歳しか離れていない。それなのにお父様は、わたしを何も分からない子どもだと思っている節がある。セージュお兄様が十四の時には、もう立派にお父様の仕事をお手伝いしていたはずなのに。
お父様とセージュお兄様は、わたしにまだ子どもでいてほしいに違いない。
「……仕方ないね、兄さんはもう大人で、父さんの右腕として仕事をしてるんだから」
わたしの不満を知ってか知らずか、イリヤお兄様は控えめに笑った。
イリヤお兄様はいつも寂しそうだ。ここ数年で、心の底から笑ったことがあるのかすら疑わしい。
それがお義母様の連れ子という境遇のせいなのか、生来の性格なのか、別の理由なのかは分からないけれど——。
「……ねえ、イリヤお兄様はどうして騎士の学校に入ったの?」
わたしは前々から思ってはいたけれど、決して口にはしなかった疑問を素直にぶつけた。
「卒業して、もしも騎士になれちゃったら、王様が住んでる宮殿とか神殿で働くんでしょう?」
「ああ、そうなれたらいいな」
「よくないわ」
わたしはお兄様の言葉を遮るように
イリヤお兄様も、うちのお店のお仕事を手伝えばいいのに」
「んー、僕はダメなんだ」
「どうして?」
「全く商人に向いてないって父さんに言われたんだよ。お前はモノを高く買って安く売る馬鹿正直者だから、適してるのは、誰かを助けたり誰かに仕えたりするような仕事だって……」
お父様の的確な分析に、わたしは吹き出してしまった。腐っても商人だ。何だかんだで、お父様はイリヤお兄様のことをよく見ている。
「……笑うな」
苦笑交じりの苦情すら愛おしくて、わたしは緩む頬を戻すことができなかった。
「だって、イリヤお兄様らしいんだもの。セレスターラ王国屈指の織物商家にして金の亡者、多くの善良な市民を見殺しにしてきた『マーシェル一族の次男』なのに」
「……父さんが苦労して大きくしたお店を、そんな風に言わない」
「みんな陰では言ってるわ。セージュお兄様は、お父様より『器用でコウカツに立ち回ってる』から、取り引き現場の支持率は高い、とかもね」
「よく聞いてるな、カトレアは」
「……勝手に耳に入ってくるだけ」
家に引きこもっているわたしでも、その程度の噂話を聞くことはある。使用人や客人の反応を見ていれば、マーシェル家という存在がどれだけ恐れられているか分かるしね。
「……ねえ、イリヤお兄様は、王子様に仕えたいの?」
恐る恐る、わたしはもう一つ尋ねた。
この国セレスターラには、私と同じ歳の王子様がいらっしゃる。王家にも色々あったみたいで、今はその方しか若い王族がいない。同い年ということで、わたしをお妃様に……なんてお父様が夢を見たこともあった。うちみたいなお金があるだけの商家の娘が見染められるなんてこと、あるわけないのに。
それはともかく、王子様といえば国王陛下になる方。つまり、若い騎士が仕える主人としては、一番の出世コースになる。
「え、ああ……。そうなったら光栄だな」
だから、イリヤお兄様の返答は当然のこと。むしろ、ここで拒否したら逆賊だと言われかねない。
それにも関わらず、わたしの胸は不思議と締めつけられた。
「カトレア?」
心配そうに覗き込むイリヤお兄様の、くすんだ空のような青い瞳が本当に綺麗で、見とれてしまった。
いずれ、誰かに取られてしまう人だから。
それは、あのお城に住んでいる王子様かもしれないし、他の誰かかもしれないけれど。
「——なんでもない」
わたしは今この時間、イリヤお兄様の傍にいられる幸せを忘れないように、芝居がかった声音を張った。
「でも今日は、カトレアだけの騎士ですからね、イリヤ・マーシェル」
イリヤお兄様は苦笑して「はいはい」と応えた。
花園の入り口の舗装は完全に水に沈んでいた。
大きな水溜まりというより、浅い池のようになっている。歩く度に泥が跳ね、水飛沫が舞った。
「排水溝が詰まってるのかしら?」
「その格好じゃ、ドレスが濡れるよ」
イリヤお兄様には悪いけれど、もうとっくに濡れているし、何なら下着までびしょびしょだ。けれど、わたしはここぞとばかりに困り顔を作って妹の特権を振りかざすことにした。
「じゃあ、おんぶして?」
「……しょうがないな。今日だけだぞ、ほら」
目の前で膝をつき、しゃがんでくれたイリヤお兄様の背中に乗る。小さい頃のように、首に腕を回して広い背中にくっつけることが、幸せじゃなかったら何なのかしら。
このままどこまでも歩いて行きたいと、心から思っていたのに。
「……セージュ兄さんは元気?」
イリヤお兄様の口から出た名前で、わたしは一気に現実に呼び戻された。
「知らない」
「あまり会ってない?」
わたしが急に不機嫌な口調になった理由も知らずに、イリヤお兄様は更に尋ねてくる。
せっかくイリヤお兄様に会えたのに、会話の内容がセージュお兄様だなんて最悪。もっと楽しいことを話したいっていう乙女心は伝わっていない。
でも、そんな鈍いところも、イリヤお兄様の魅力だもの。
そう言い聞かせて、仕方なく溜息交じりに答えた。
「『いつも通り』よ。お仕事へ行って、帰って、お夕食をご一緒して、さっさとカトレアをお部屋に帰すだけ。あとは夜中までお父様とお喋り。毎日同じ繰り返しすぎて、お元気かどうかなんて分かりっこないでしょ?」
「……つまり、元気なんだな」
わたしは大きく肯く。
「この間はね、ウチのお店の倉庫に入ったドロボーさんを三人捕まえたのよ。セージュお兄様ひとりで」
「しかも、すっごく元気なんだな」
小さい頃から体術を習っているセージュお兄様は、はっきり言って強い。でも、剣術を習っているイリヤお兄様だって、見かけによらず力持ちで強いことを知っている。こうしてわたしを背負っても、全くふらつかないし。イリヤお兄様は昔から体幹が強いとお父様が言っていた。
「……セージュお兄様は、嫌い」
ぽつりと呟いたわたしの独り言で、イリヤお兄様の身体が一瞬強ばるのが分かった。
「カトレア……。そんなこと言っちゃダメだよ」
「どうして?」
「どうしてって、兄さんじゃないか。カトレアのことを大事にしてるんだぞ?」
きっと、イリヤお兄様は本気で言っている。
家族は仲良く、円満に——それが、イリヤお兄様の最も望むことだというのも知っている。
でも、わたしには違和感しかなかった。
「……イリヤお兄様には酷いことをしてるのに?」
「……えっ?」
また、イリヤお兄様の身体に力が入った。
だって、わたしは知っている。セージュお兄様が、小さい頃から隠れてイリヤお兄様に暴力を振るってきたことを。
自分で犯した小さな罪を、全部イリヤお兄様になすりつけ、お父様たちを洗脳してきたことを。
それでもイリヤお兄様は黙っているから、お父様にとっては「何を考えているか分からない子」になってしまった。わたしがいくら庇っても無駄なほどに、イリヤお兄様はお父様からの信頼を失っていた。
——イリヤお兄様自身がどうして反論しないのか、わたしは不思議で仕方がない。いくら事なかれ主義だとしても、度が過ぎていると思う。
それらをイリヤお兄様にぶつけようかと口を開いた時。
「あっ」
視界に、うっすら光る青い花弁が目に入った。
「見て、あそこ! もう咲いてる!」
たった一輪。けれど、恐ろしいほどの存在感を醸し出しているのは。
雨で薄暗い庭園の中に凜と咲く青い花——リプアラだった。
あまりの美しさに言葉を失っていると、イリヤお兄様が声を上げた。
「あれがリプアラか。あんなに透き通った蒼い花びら、見たことない」
「でしょ! この世界でもセレスターラにしか咲かない特別なお花なんだから」
近付こうとして、がくんと揺れた。イリヤお兄様がバランスを崩したのだ。
「あっ……とと」
「お兄様、大丈夫?」
「うん。……あの花、まだ一輪しか咲いてない。摘むの、少し可哀想だな」
「これからいっぱい咲くもの。蕾もこんなにあるし、きっと大丈夫」
「うーん」
「きっと、この子はカトレアの誕生日のために、一人だけ急いで咲いたんだと思うわ。そうに違いないわ!」
「……かなわないな、分かったよ」
イリヤお兄様はわたしを近くのベンチに降ろすと、ひとりで水浸しの庭園を進み、リプアラに手を伸ばした。
「いい香りだな……」
そう呟いて、リプアラに触れて呟いた途端。
イリヤお兄様は突然、胸元を抑えて崩れ落ち、そのまま倒れてしまった。
「え……? お兄様!」
大きく水飛沫が跳ねる。
わたしは慌てて駆け寄り、イリヤお兄様に縋り付いた。
「イリヤお兄様!」」
幸い、息はしている。でも、いくら呼び掛けても反応がない。固く目を閉じたまま、イリヤお兄様は動かなかった。

 

 

イリヤお兄様が倒れてから、ほんの数分だったのか。一時間は経ったのか。
それすら分からないほど、わたしは混乱していた。
このままイリヤお兄様が死んでしまうのではないかという不安にかられ、お兄様を屋敷まで運ぼうとした。よくよく考えれば、人を呼びに行けばよかったのに。そんな判断力すら失われていた。
既に辺りは薄暗くなっている。
「お兄様! イリヤお兄様!」
泣きながら何度目かに声をかけた時、イリヤお兄様の瞼がぴくりと動いた。
「……カトレア」
「イリヤお兄様!」
「……あれ、もう夜……? 今、何を……?」
「しゃがんで花を摘んだ後、急に倒れたのよ」
「あ、ああ……。ごめん、カトレア。ちょっと目眩がしただけ。大丈夫だよ」
「目が覚めて良かった……!」
「カトレア……」
イリヤお兄様の胸に縋り付き、わたしは我を忘れるくらいに泣いた。安堵と恐怖が同時にやって来て、自分の感情が暴走しているのが分かる。
だから、わたしは全く気付いていなかった。
魔力灯を左手に携え、茂みをかき分けてきた、セージュお兄様の存在に。
「やあ、雨男のイリヤ君」
背筋が凍るほどの冷たい声色がイリヤお兄様を呼び、わたしたちの目の前で立ち止まる。
「お前が帰ってくると、いつも雨だね」
イリヤお兄様が息を飲み、その緊張がわたしにまで伝わってくる。
「我が家に不法に侵入した輩がいるというから急いで戻ってみれば、花泥棒は我が妹と弟だったよ。どう報告すればいいのやら」
「兄さん……久しぶりです」
「ごきげんよう、カトレア。そしてお帰り、イリヤ」
その言葉が終わるより早く。
イリヤお兄様が、水溜まりに飛んだ。
セージュお兄様がイリヤお兄様を殴ったと理解したのは、そのすぐ後。
「きゃっ! イリヤお兄様!」
「っ……!」
頭を押さえて呻くイリヤお兄様に駆け寄ろうとしたわたしの腕を、セージュお兄様が掴む。
「離して! どうしてイリヤお兄様をぶつの? リプアラが欲しいって言ったのはカトレアなのに!」
「はぁ、そんなことは分かっているよ。イリヤが花に興味があるとは思ってない。だけどね、お前とイリヤでは立場が違う」
「違わない!」
わたしは涙を流したばかりの濡れた目で、セージュお兄様を睨みつける。セージュお兄様は眉間に皺を寄せていた。
「……すみません、僕が悪かったんです」
イリヤお兄様が、わたしを庇うように謝罪をした。やっぱりわたしには、殴られてまで従順でいるイリヤお兄様の心理が全く理解できない。
「本当にね。休暇で帰ったと思えば、早速ろくなことをしでかさない。こんな真っ暗闇の中で何をしていた? 兄妹とはいえ男と女だ。分からないほど子供じゃないだろう、二人とも?」
一瞬、何を言われたか分からなかったけれど。
それはイリヤお兄様とわたしに対する、これ以上ない酷い侮辱だった。目の前が真っ暗闇になるほどに。
「セージュお兄様が心配するようなことなんてないわ! 今日はカトレアの誕生日だから……」
「それでも、花を摘んだのは僕だ」
「だから、それはカトレアが!」
「……兄さん、僕はどんな罰でも受けますから、カトレアを許してください」
「……ふん、相変わらずだね、イリヤ」
セージュお兄様はわたしの腕を解放し、身体を起こしたイリヤお兄様に近付いていく。
「欲のない割に、罰だけは欲しがる所だよ」
そして、イリヤお兄様の目の前に片膝を突き、真正面から見つめた。
「昔からお前はいい子だったね。子供にしては、できすぎるぐらいだった」
「……兄さん?」
「何もいらないって、いつも気を遣う子だった。だからこそ、父上にも母上にも、カトレアにも愛されてきたんだろう」
イリヤお兄様の襟元に手を掛けるセージュお兄様。その迫力に気圧されているイリヤお兄様とわたし。
怒りと恐怖に震えて、足が一歩も動かない。
「……でもね、お前は気付いてないだけなんだよ」
そう言って、セージュお兄様は片手でイリヤお兄様の首を絞めた。
「っ!!」
「はははははっ! 何もいらない? 人間である以上、そんなことは有り得ない」
「やめて、セージュお兄様! 死んじゃう!」
わたしは必死に訴え、セージュお兄様のもう片方の腕に縋り付いた。でも、わたしの力ではセージュお兄様を止めることなんてできない。
セージュお兄様の腕にぶらさがる格好で、至近距離にあるイリヤお兄様の苦しそうな顔を見た。
「……でも、僕は何も……」
「へえ、何もね。この命すらいらないって?」
「そ、それ……は……!」
「それとも、何かを望めば汚れるとでも思っているのか? そんなに綺麗なフリをしたいのか?」
セージュお兄様がイリヤお兄様の腕を掴み、水溜まりへ叩き付けた。
「イリヤお兄様っ!」
「うっ……。大丈夫だよ、カトレア……。何でも……ないから……」
「ふん、まだ言うか。まったく、感心するよ」
「セージュお兄様、ひどいわ!」
「わめくな。お前はそこで見ていなさい」
イリヤお兄様の胸ぐらを掴みながら、セージュお兄様は冷淡に言った。
「なあ、イリヤ。お前は人なんだよ。俺が思い知らせてやろうか? 泥だらけのこの手が何を掴みたいのか、この生意気な目が何を追っているのか。気付いてないのはお前だけ……」
セージュお兄様は抵抗しないイリヤお兄様を人形のように扱う。
許せない。
セージュお兄様——いや、この男は、どれだけイリヤお兄様を傷つければ気が済むのだろう。
自分の心が汚いからって、イリヤお兄様まで真っ黒に染めようとするなんて。

(——こんな現実でいいの?)

不意に、わたしの心の奥に誰かの声が浮かんだ。

(——カトレア、あなたは何を望んでいるの?)

まるで狭い洞窟に響くような、実体のない女性の声色。耳の奥か、頭の中か、どこから鳴っているのかも分からないのに、不思議と恐怖は感じなかった。
わたしは思い出す。
人が望む幻想を見せる魔花リプアラの伝説を。
わたしは傍に転がっていた大きな石を両手で拾った。そして、ゆっくりとセージュお兄様に近付く。
イリヤお兄様をなぶるお兄様の背後に回り、その後頭部めがけて石で殴りつけた。
「ぐっ!」
鈍い音と共に、わたしの両手にも痺れるような痛みが走る。
頭を両手で抱えて膝をつくセージュお兄様を、わたしは冷たく見下ろした。
「イリヤお兄様をいじめないでって、言ってるでしょう」
「……俺を殴ったな、カトレア」
「セージュお兄様なんて嫌いだもの!」
わたしの言葉に動じた様子も見せず、セージュお兄様は頭を押さえながら立ち上がる。
「そうだろうね。純粋な殺意を感じたよ。これが『死(エクリス)』のご意思というやつか?」
口元は笑っているが、瞳は少しも笑っていない。
わたしの力では、セージュお兄様を気絶させることも殺すこともできない。
むしろ、もっともっと怒らせるだけ。
一体どうしたら、イリヤお兄様を助けることができるのかしら?
「……セージュお兄様がイリヤお兄様を追い出したんでしょう? カトレア、知ってるもの。小さい頃からずっと、イリヤお兄様を陰でいじめてたこと……」
「いじめる? 簡単に言ってくれるね。汚いモノを掴んで栄えてきた、マーシェル家の次男である自覚を持って欲しいだけだよ」
「自覚ですって? お兄様の奴隷にでもなれっていうの?」
怒りでおかしくなりそうだったわたしは——ついに思いついた。
力のないわたしが、セージュお兄様をこらしめる、たったひとつの方法を。
「——そんなの、セージュお兄様が決めることじゃないわ」
わたしはわざとセージュお兄様を煽るように睨みつける。
そして、わたしを愛しているセージュお兄様が最も嫌がる台詞を叫んだ。
「カトレアのお兄様はイリヤお兄様だけでいい!」
わたしと同じ茶色の瞳が、驚いたようにこちらを見る。
でも、怯まなかった。
わたしの願いは、たったひとつだから。
「セージュお兄様なんていらない!」
「——聞いたかい、イリヤ? 俺たちの可愛い妹は、なかなか面白いことを言うだろう?」
倒れたままのイリヤお兄様は、動けずに微かに呻くだけ。
それを良いことに、セージュお兄様はイリヤお兄様の背中を踏んだ。
「……うっ!」
「血の繋がった実の兄をいらないといい、血の繋がらない他人を唯一の兄と呼び慕う。まったく、教育がなっていない」
そして、ゆっくりとセージュお兄様はわたしに向き直る。
わたしはわざと怯えたような表情で、後ずさった。
「今度はお前の番だ。マーシェル家の掟と、本当の兄が誰なのか教えてあげよう、カトレア」
わたしの手首を掴むセージュお兄様の瞳は、もう正気ではない。リプアラの魔力に包まれたこの花園で、セージュお兄様はわたしを襲う。
——それでいいの。
「や…やめて! イリヤお兄様、助けて!」
本当の想いとは裏腹に、わたしは叫ぶ。
「カ、カトレ…ア……」
「大人しくしなさい、カトレア」
「放して、いや、いやああ!」

わたしの嘘は、イリヤお兄様の耳に届いたかしら。
雨の音が強すぎて、掻き消されてしまったかしら——。

 

 

 

 

……声が遠い。
全てを突き刺し、掻き消すような雨だった。
それは、罪人に罰を与えているのか、或いは、過ちを水に流そうとしているのか。
答のなきまま、雨音は次第に激しくなっていく。
永遠に降り注ぐ、哀しみの檻の中、
願いだけで飾られた偽りの籠の中、
まだ、誰かが泣いていた。
誰かが、僕を呼んでいた……。

そんな中、僕は遠い昔にカトレアから聞いた物語を思い出す。

 

「……あのね、お兄様。リプアラのおとぎ話には、別の結末があるのよ。お兄様はどちらが好きかしら?」

——どちら? どちらって、何?

「花になれなかった少女は、絶望のあまり、湖へと沈むことを選びました。優しく深い湖は、哀れな少女をゆっくりと呑み込んでいきました。少女は今も『死の都市』で、永遠の夢を見ているのです」

——死の都市? 永遠の——夢?

 

「いつか迎えに来てくれる誰かを、あの月のように愛おしい誰かを、待ち続けているのです……」

 

<終>